機関紙「自治労府職」
2008年1月1号
賀 正
自治労府職執行部一同
ネズミのことわざ
故事・用語
大山鳴動して鼠一匹
無気味な地鳴りがして、大きな山が激しく揺れ動いたので、どんな恐ろしい生き物が現れるのかと思ったら、出てきたのはネズミ一匹だった。前ぶれで大騒ぎをしたが、実際にやってみると大して面白くなかったというたとえ。
◇ ◇
袋の鼠
袋の中に追い込まれたネズミ。どうすることもできない苦境に追い詰められた状況のこと。
◇ ◇
驥をして鼠を捕らしむ
*驥=一日に千里を走る名馬のこと。
一日千里を走る名馬にネズミを捕らせること。有能な人につまらない仕事をさせるなど、人の使い道を誤ることのたとえ。
◇ ◇
窮鼠猫を噛む
ネズミも追い詰められて逃げ場を失うと、逆に猫を攻撃する。弱い者でも切羽詰まると、死に物狂いで強い者に逆襲することができるというたとえ。
◇ ◇
猛虎鼠となる
猛獣として恐れられるトラも、その威を失ってしまえば、ネズミと同じで怖くない。権力者も、その権威を失えば無力になるというたとえ。
◇ ◇
だまり猫が鼠を獲る
あまり鳴かずに物静かなネコがよくネズミを捕るように、派手な行動をせず黙々としている人が、誰も知らない間に大事を成すということ。また、無口な人はおそろしいという意味にも使われる。
◇ ◇
頭の黒い鼠
人間のこと。ネズミが物を盗むように、物をかすめ取る人のこと。物がなくなった時などに、それを盗んだのは、「頭の黒いネズミ=人間」であろうと、犯人をほのめかしていう。
◇ ◇
鳴く猫、鼠とらず
口数の多い人に限って、話ばかりで実行力が伴わないこと。
◇ ◇
三年になる鼠を今年生まれの猫子が捕らえる
すぐれた人物は、幼いころから並みはずれた才能を現すということ。また、大人が子どもにやり込められること。
◇ ◇
猫の前の鼠の昼寝
ネコが近くにいるとは知らず、ネズミが昼寝をしていること。目の前に危険が迫っていることに気づかず、油断していること。
◇ ◇
手袋をはめた猫は鼠を取らぬ
体裁を飾って気取っていれば仕事にならないということ。本気で取り組まなければ、仕事は達成できないというたとえ。
2008年 新年のごあいさつ
次代へ繋げる運動
執行委員長 中垣 雅雄
組合員の皆様、あけましておめでとうございます。ご家族おそろいで爽やかな新年を迎えられ、お元気にご活躍のことと存じます。
働く者にとって健康はかけがいのないものです、この一年のご健康を心から祈念いたします。
2007年をふりかえる漢字は「偽」という文字が選ばれましたが、私にとっての漢字は「選」でした。
昨年は、4月の統一地方選挙、7月の参議院選挙、9月の猪名川町議会における久保選挙、そして11月の大阪市長選挙と選挙が続きましたが「流れをかえる」という組合員の皆様の強い意気込みと決意が反映され、いずれも好結果を勝ち取ることができました。
なかでも参議院選挙において、自治労が送り出した「あいはらくみこ」さんがトップ当選したこと、参議院で与野党が逆転したことは「政治の流れをかえる」という労働者の気合の一撃であり、ご支援に心から感謝いたします。
昨年9月、「美しい国」を標榜した安倍首相が突如退陣し、一見ソフトムードで対話と協調路線の福田内閣が誕生しましたが、継承した構造改革路線のもと、働くものや退職者の生活の根底を破壊する医療、年金、税制など容赦のない厳しい、制度改悪を押し付け「格差拡大」を一層進めようとしています。
さらに問題は、安倍内閣は沈みましたが強行採決した数々の法案は今も生きています。とくに国民投票法の成立など、憲法改悪に向けた地ならしが進んでおり、平和と民主主義を守る取り組みがこれからの重要な闘いとなります。
2008年の干支は「子(ね)」ですが、子年は「衆議院解散の年」と言われており、戦後の過去5回の子年は1984年を除き48年(吉田内閣)、60年(池田内閣)、72年(田中内閣)、96年(橋本内閣)といずれも衆議院が4回解散されています。
08年は衆議院解散総選挙も予測され、格差拡大に歯止めをかけるためにも、働く者が主体的に「政治の流れを変える」という政権交代にむけた大変重要な年です。
また、大阪府をめぐる厳しい財政状況、さらに府労連を取り巻く厳しい環境のもとで、昨年の秋季年末闘争は、満足できる内容ではありませんが11年ぶりの賃金改善をはかることができました。しかし、公務員給与については、技能労務職の給与見直しやラスパイレスにかわるフィシャー指数など新たな指数を持ち込み、さらなる公務員労働者への賃金抑制攻撃を強めていく方向が明らかになっています。
公務員バッシングの中で自治労への風当たりはますます強まりますが、将来にわたり安心して働き続け仕事ができる職場を確立するためには今日ほど労働組合に結集することが求められている時はありません。
年明け早々に大阪府知事選挙が行われますが、私たちは民主党が擁立した「熊谷さだとし」候補を組織として推薦を決定しました。
知名度だけの候補者はいただけません。
実務型で安定感のある熊谷知事候補の当選を期して府政を変革して行こうではありませんか、組合員の皆様のご支援を頂きますよう心からお願い申し上げます。
早いもので、委員長の任につき1年3カ月が経過をいたしましたが、残された任期を全力をあげてとりくんでいく決意を申し上げるとともに、自治労府職の次世代への繋ぎ役としてその役割を果たしていきたいたいと思います。
組合員の皆様と、ご家族の皆様のこれからのご活躍とご健康をお祈りしごあいさつとします。
初心を忘れず頑張ります
熊取町議会議員 ぶんの 慎治
新年明けましておめでとうございます。
昨年の統一地方選挙・熊取町議会議員選挙では、推薦をたまわり、組織内候補として最大限の応援をいただき、上位当選を果たすことができました。また、大阪府退職以降も皆さんから、メールや電話で叱咤激励をいただき、選挙までの長い一年間を挫折することなく乗り切り、選挙戦に立ち向かうことができました。この紙面をお借りいたしまして、改めてお礼申し上げます。
当選後は、新人議員3人で会派『政勇クラブ』を結成し、幹事長を務め、議会の活性化・『住みたくなるまち熊取町』をめざして、日々活動しています。そんな折、熊取町で談合事件が発覚し、業者側が逮捕・起訴され、町長もその責任を取って辞職し、昨年7月に続き1月27日に町長選挙が実施されます。
1年生議員ですが、自治労自治体議員連盟の一員として『地域主権』の時代に相応しい議会・町政をめざし、初心を忘れず、志を高く持って、これからも頑張る決意です。今後とも、ご支援をたまわりますよう、よろしくお願いします。
生活維新に向け、全力
猪名川町議会議員 くぼ 宗一
2008年、それは政権交代が本当に実現する歴史的な政治決戦の年になるでしょう。民主党がめざすのは、政権交代可能な二大政党制を確固たるものとし、格差是正をはじめとして「公正な国」をつくることです。
昨年春の統一地方選、夏の参院選における民主党の勝利をホップ・ステップとするのなら、次期総選挙でジャンプし、みごと衆参で与野党逆転を果たしていかなければなりません。信頼関係のもと、働く人々の雇用と生活を守る政策課題の実現にむけてともに行動していきましょう。
私は昨年9月、組合員の皆様の力強いご支援により、猪名川町議会初の民主党議員として、新しい仕事をさせていだくことになりました。「子ども第一主義」の基本理念のもと、12月定例会では、町の教育施策を点検する立場から一般質問を行い、その後も駅頭などで町政の現状を訴え続けています。
これからも地域の人と暮らしが豊かな日本となるよう、地道な活動ですが、地域から「生活維新」を成し遂げるべく、全力で取り組んでいく所存です。
迎春2008年
執行委員長 中垣 雅雄
副執行委員長 山本 和要
副執行委員長 西浦 昌寛
副執行委員長 橋本 芳章
副執行委員長 大鳥美矢子
書記長 川本富士夫
書記次長 松田 章義
会計 阪田 淑子
会計監事 福永 義純
会計監事 前角 高広
会計監事 千野 平
執行委員 西村 明子
執行委員 前田 好夫
執行委員 大西 将之
執行委員 針田 宏
執行委員 小田 晃之
執行委員 池口 忠史
執行委員 藤本 英樹
府現労委員長 中村 正則
ユース部長 松山 俊也
書記 小出 敏輝
書記(非常勤) 植本 峰子
特別執行委員 植本眞砂子
特別執行委員 文野 慎治
特別執行委員 久保 宗一
熊谷さだとし
1.人、モノ、金が流れる
大阪に。
2.不器用でもいい。自分の
考えを言える子を育てよう。
3.高齢者や若者を「独り
ぼっち」にはさせない
4.健康、スポーツ、府民の
笑顔。命を守る大阪に。
5.努力のむくわれる、
楽しく働ける大阪に。
6.未来へのプレゼント、
水と緑の豊かな大阪。
7.ガラス張りの府政、
府市協調で行財政を改革。
8.2府7県が手を結び、
道州制で近畿のパワーアップ。
「大阪は元気がないと言われるが、底力は充分にある。リーダーシップを発揮して、新しい府政で大阪を元気にする」と、府政にかける熱い思いを訴えるのは、生粋の大阪人で、大阪大学大学院教授の熊谷さだとしさんだ。
自治労府職は12月19日に開いた第8回執行委員会で、熊谷さだとしさんの推薦を決定した。すでに連合大阪や自治労府本部、府労連は推薦を決めており、連合大阪とは5項目の政策協定を締結している。
熊谷さんは「府民の生活が第一」として、8つの重点政策を掲げ、大阪の再生に向け、リーダーシップを発揮するとしている。
自治労府職としても、大阪再生を確実な手腕で実行する力強いリーダーとして、熊谷さんの奮闘に期待し、必勝に向けて全組織の総力を挙げて取り組んでいく。
組合員の皆さまのご理解をお願いいたします。
プロフィル
●1945年豊中市生まれ、60年灘中学校卒業、63年灘高校卒業、68年東京大学工学部電気学科卒業、75年大阪大学大学院基礎工学研究科博士課程修了、大阪大学工学部助手、79年カリフォルニア大学バークレー校客員研究員、90年大阪大学教授に就任、2007年12月末、大阪大学大学院工学研究科を退官
●家 族:妻と一男、二女(現在は妻と長男の3人暮らし)
●好きな言葉:君子もとより窮す(孔子)
●好きな作家:藤沢周平
●趣 味:サッカー(中学からのサッカー選手)、ゴルフ、読書、映画鑑賞、歴史
組合員(とし男・とし女)の抱負
2008年は子年(ねずみ)年です。そこで、自治労府職組合員で、亥年うまれの組合員さんに登場いただき、1年の抱負といった設問を設けて答えていただきました(敬称略)。
@ 2007年で1番楽しいと感じたのはどんな時ですか?
A 2008年に「これだけはやってみよう」と思っていることは?
B 自治労府職に一言お願いします
R課Yさん
@ 人生初の沖縄を体験できたことですね。9月に職場の研修で知り合った沖縄の友達に会いに行きまして、沖縄の透き通った海を見に行くことができましたし、ご当地料理もたくさん食べられたので、すごく楽しい時間を過ごせました。また来年も機会があれば行くつもりです。
A 就職を機に大阪に来てもうすぐ2年が経ちますが、まだ日本伝統の都である京都・奈良を観光していないので、ぜひ観光に行きたいです。また祇園祭などのお祭りも見に行こうと思っています。あと、余裕があれば今年は「とし男」だけに、東京でディズニーランドかディズニーシーに行けたら最高ですね。
B いつも私たち職員のために、ご尽力くださり感謝しております。私の給与が4月に遡って昇給されることが決まったとき、初めて組合活動の成果を実感することができました。これからの組合活動も応援しております。
KセンターSさん
@ 11月に弟家族と我が家と両親で白浜に一泊旅行に行きました。何年か前から「みんなで行きたいね」と言ってたのですが、いろんな理由でなかなかいけずやっと実現しました。両親がとても喜んでくれたことと、うちの子が甥や姪のことをいろいろ世話を焼いているところを見て成長したなと感じることができてよかったです。
A 沢山やりたいことがあります。「スキューバダイビング(休眠中)」「一人旅」「何か楽器を始めたい」の3つまでがんばってえらびましたが…どうしましょう。うーーーーん。若い頃あんなにがんばってきたスキューバダイビングを勉強しなおして、ダイバーに復活するか!
B いつもいろいろとありがとうございます。私がダイバーデビューしたのも自治労のダイビングですよ。
KセンターNさん
@ 1歳半の子どもがどんどん言葉を覚え、家族全員のことを呼べる様になった時、子育てって楽しいと思いました。
A 5歳の子どもとお休みの日にお菓子作り。子育てと仕事に毎日追われているので、今年は少し余裕を持って働きたいし、子育ても楽しみたいと思います。
B 子育てをしながらの仕事は大変ですが、働きがいのある職場づくりをすることで、仕事を続けていけると思います。そのためにも、人員確保を希望します。
SセンターMさん
@ パラセイリングで、初めて空を飛んだとき。
A バンジージャンプ。20代前半のうちに人生にカツを入れるため。
B 今年、転勤により当センターで仕事をしています。来年は私の当たり年の、ねずみ年です。ねずみのようにコツコツと仕事も組合活動も皆様の指導・協力を得て頑張りたいと思います。
KセンターFさん
@ 毎年恒例の正月の集いです。年老いた父と、若々しい妻と、年頃の娘2人(共に37歳)と、頼りがいのある婿殿と、我が子のような孫4人(11歳・9歳・8歳・6歳)と一緒に食事をしている時です。
A 検査技師として永年勤めさせていただいた最終年度にあたり、いままでと同様に医療過誤を起こさぬよう一層注意気配りをし、まっとうしたい。
B 独法化になってから、組合活動が停滞しているような感じがするので、もっと活発的に(レクリエーション活動だけでも良い)活動してくれることを期待したい。
Z課Iさん
@ しゃべっているとき、食べているとき、笑っているとき、年よりも若く見られたときです。
A 体力をつけるため(若返りのため)に、スポーツにチャレンジしたい。
B お給料をあげてください。
C事務所Oさん
@ 社会人一年生なので、初めて給料が支給されてデジカメなどほしかったものを買ったときが一番楽しかったです。
A 趣味でやっている音楽について、オリジナルCDを作るなど、活動を形に残したいと思っています(鋭意作業中)。
B 職員の勤務条件等の向上、そして大阪というまちをよりよくするために今後もがんばってください。
N事務所Nさん
@ 愛犬の死・病気一つしたことのない母親(95歳)の入院と悲しいことばかりが思い浮かび、特段ありませんが長年コーチをしているキックベースボール(少年ソフトの女の子版)で今年の弱小チームがこの夏、連盟の大会で銅メダルを取ったときに監督コーチと飲んだビールの味。
追記:大橋前委員長の率いるチーム古市レインボー頑張れ。
A 私には今年31歳になる子を筆頭に(近所で美人3姉妹と評判?)3人の適齢期娘がいるのですが、居心地がよいのか嫁にも行かず家にいるのです。今まで気にもしなかったのですが、先日もライフプランセミナーを受講する歳になった今年「どげんかせないかん」と思うのですが、こればっかりは。娘の「お世話になりました」のあいさつを待って、思い切り泣きたいものです。
B 私は入庁時から当局に対し物言える組合が好きで、敬服もしてきました。特に税務一家として結束の強かった税務支部が大好きでした(よいしょしすぎかな)。今後とも組合員のため頑張って下さい。昨今の公務員バッシングから守って下さい。
K事務所Kさん
@ 左手親指の腱鞘炎の手術後、指が曲がるようになり、痛みも無くなった時。なんとなく憂うつだった気持ちが晴れ、楽しい気分に。
A 旅行。温泉・グルメにエステ…。まずは湯けむりに浮かぶ桜を眺め、お花見露天で春を満喫。
B なし
S課Iさん
@ 実家からもらってきたミニチュアダックスと一緒に遊ぶ時間が一番楽しいかも。
A 1メートルを超えるスケールの戦艦大和のプラモデルを、いつ作れるかわからないけど買っておきたい。
B まわりを見回しても、組合員少ないですねぇ…
SセンターHさん
@ やはり家族で過ごしている時ですね!何をしていても、どんなことでも楽しい♪子供には癒されます。他には「仕事だ!起きなくては」と思った次の瞬間「今日は年休をとっていたんだー」と気づいたとき。最高に幸せ感じます。
A おおそうじ。毎年、今年こそは、今年こそはと思いながら……。なぜできないんでしょうか?
B 昨年末の11年ぶりの給与改善! やはり組合の力あってこそだと思います。お疲れさまでした。目に見える成果があると、普段あまり気づかない(ゴメンナサイ!)組合の存在価値に気づかされます。なくてはならない存在だと思いますので、これからも縁の下の力持ちで頑張ってください。よろしくお願いします。
Z課Oさん
@ 5歳になる娘がピアノを習いだし、その上達を見るのが楽しかった。初めのうちは上手く出来ず泣きながらピアノに向かっていたが、素人の私と競うように練習をしたら随分上手になりました。
A 昔は多趣味だったのですが、ここ数年は公私共に忙しく趣味に興じる時間がほとんどありませんでしたので、今年度はここ数年封印している趣味(熱帯魚・釣・アウトドアなど)を復活させてみたいと思います。
B 昨年の秋季年末闘争では、人事委員会勧告の完全実施とはいかなかったものの、久しぶりに給与月額を引き上げる内容となりました。組合の存在価値を改めて実感できた昨年の闘争だったと思います。今後、益々の活躍を期待します。
T課Tさん
@ この数年毎週月曜日に梅田の日中友好協会に漢語を習いに行っていて、少しずつ力を付けて行っていることを実感する瞬間かなぁ。
A 安いパックで、しかも自由に行動できるパックツアーで、北京に行くこと。言葉の上達は実際に使ってみることに限る。漢語(いわゆる「中国語」のこと)を習っているので使いたい。それに開発でなくなりつつある胡同(フートン・庶民的な横丁)と伝統的な建築様式四合院(スハーユエン)を見てみたい。北海公園の近くに東坡肉(トンポロウ)のおいしいレストランがあるそうなので食べてみたい。どなたか一緒に行きませんか。
B 私は、後1年3カ月で定年退職を迎えます。40年近く労働組合で活動してきました。それはこの上ない幸せなことでした。なぜ?世界が広がったからです。仕事だけをしていたのでは知ることのできない知識を身につけました。さまざまな体験ができました。多くの刺激を受けました。すばらしい人々と出会いました。ここでは書ききれませんが、とにかく労働組合の活動を通して私の世界観を確立しました。こんなすばらしい活動をしないで人生を終えるのはもったいない。このことを組合員の皆さんに伝えたいのです。
S事務所Iさん
@ 2007年は1年中楽しかったです。毎週末はどこかへ遊びに行き、「ぼくの夏休み」バリに遊びたくりました。年齢を重ねるごとに落ち着いていくはずが、逆に落ち着きをなくしていってます…汗。朝日が昇るとともに、遊びに出かけ、朝日が昇るとともに帰路につく………我ながらやりよるわ〜(笑)。
A スノボに挑戦すること!! 初スノボの日は決定しているので、調子のってウェアも購入しました。今シーズン、あともう1回は行きたいなぁ。ただ、ちょいとどんくさいので怪我には気をつけたいです(笑)。
あとは漢検を取りたいです。前に、漢字の読み方を間違えて爆笑されたので(それはそれで嬉しい笑)、流行のDSも持っていますし、ソフト購入して真剣にやってみたいです。
B 新年明けましておめでとうございます。本年度もよろしくお願い申し上げます。
「組合に入っててよかった」と思えることを、たくさん企画してください。
N課Iさん
@ 2人の大先輩が選挙を経て、晴れて「先生」と言われる再就職を勝ち取ることができました。「微力ながら役立つことができた」と、勝手に喜べたことです。この4年間、2人の大先輩を「手を抜いてへんやろな〜」と監視し続けようと思っています…。
A 意地でもダイエットを貫徹します(正しいのか?この労組用語は…)。採用時62`とスリムだった体重も、今では80…。青年部時代はハングリー精神で闘ってきた私も、今ではただのダラ幹…もとい、肥満中年にしか見えません。ビリー隊長も入隊前にブームが下火になってしまいました。しんどいことが嫌いな私は、サプリ&プチ絶食で痩せようと甘い妄想で取り組んでいますが、まるで成果は出てきません。当局・資本と闘う前に、自分の食欲との壮大な闘いの一年とします。
B 知事選の結果いかんによっては「そりゃないで〜。堪忍〜」ってなことになりかねません。みんなで気合い入れてがんばりましょう。あと、いまの自治労府職はお世辞にも「イケイケ・ドンドン」ってな感じではありません。私たちの仲間を増やすため、すべての職場で元気を出してオルグっていきましょう♪
M課Sさん
@ 最近の就職戦線は企業が優秀な人材を確保するため非常に厳しくなっている。私の一番上の娘がもうすぐ大学を卒業するため一昨年の12月から就職活動を行っていたが、なかなか、就職先が決まらなかったが、やっと決定した。親としては本人以上にホッとした。
A このところ時間に追われる日々を送っている。少しだけのんびりしたいのだがなかなか思うようにならない。今年は、ほんの少し長く休みを取って俗世間を離れ、のんびりと旅行にでも出かけたいと思っている。
B われわれを取り巻く環境は厳しい状況が続いているが、賃金労働条件の改善に一層の努力をお願いしたい。特に、組合員のモチベーションをアップさせるためにも人事委員勧告の完全実施は当然として、比較的年齢の高い組合員の給与改善と業務量に見合った人員配置を追求してほしい。
C事務所Uさん
@ 「苦あれば、楽あり」になぞらえれば、老老介護↓緊急入院↓治癒退院一週間前と推移してきた父親が急死してしまった。半年という短い期間ではあったが、遠距離介護・看護を通じて、時間を共有できたことで30年間の空白を少しは埋めることができ、ささやかな親孝行ができたこと。
A 一人ぼっちになり、大阪に来ることになった認知症の母親とは、非日常の遠距離介護から、日常を共有する近距離介護へと切り替わっていくが、互いの生活が楽しめるような余裕のある介護関係と時間をつくっていきたい。
B 「組合活動の足を引っ張りかつ支えもする」という好き勝手な我が世代の大量退職が、組合組織・運動の衰退・停滞につながるのではないかとの自負心が杞憂になることを願う。と同時に自らの課題=老人問題で「労働運動」との連携を模索・継続していきたいとのささやかな想いも交錯している。
K所Iさん
@ 職場の野球に没頭した1年でした。毎日のようにボールに触れ、バットを振りました。壊した肩のリハビリのためにプールにも通いました。鏡やガラスの前など自分の姿がうつるところではバッティングフォームをチェックする癖がつきました。
A 脱「ちょいデブ・オヤジ」を目指して、ダイエットします。それと、親孝行の真似事ということで両親を旅行に連れて行こうと思います。
B 役員の皆様、いつもお疲れ様です。今後ともよろしくお願いします。
Y事務所Mさん
@ 秋に東北へ山行に行ったこと。4日、快晴で4日続けて山・丘・滝めぐり・湖・沼めぐりをしたこと。一人だったので少しは退屈・疲れで嫌になるかなぁ、と思ったのだが、ぜんぜん嫌にならず、夜は一人居酒屋を探して飲んだこと。交通手段は悪かったけれど、自身最大限の知恵を絞り、毎日その日の目的地を決めながら歩きました。そして安達太良山へ一人ラッセルして1時間余りしていたとき、同じく山頂からラッセルをして降りてくる人びとと会い、自分も激しい風のなか、山頂へ辿り着くことができたのは、本当にうれしかった。一人だけの雪山は、なかなか山頂をめざしても、辿り着くのが難しいから。
A 退職前の準備。山行きのための車の練習。40年前のカビのはえた免許証を使えるようにすること。それと後輩たちが仕事をしやすいよう、助け合いできるような職場の雰囲気づくり。
B 安全・安心信頼しあえる組合づくりのため、それぞれ職場でお互いがんばる。矛盾は矛盾として、話し合える職場づくりをめざして欲しい。
SセンターIさん
@ 友達の家族、総勢20人以上で、キャンプをしたこと。自然の中、たいへんなことも多くあったが、そこがまた楽しかった。
A 自分磨き。今までは子供たち中心の生活であったが、少し自分のこともしてみようと考えている。といっても、外見ではなく内面的なことで、熱中出来れば、なおかついいのだが…
B いつもご苦労様です。これからも、賃金の引き上げに期待しています。
S学院Iさん
@ わが家の恒例の夏の家族旅行。自分が一番楽しんでいるかもしれませんね。一年に一回の贅沢。それは宿泊したホテルでマッサージを頼むことです。心身ともにリフレッシュした気分になります。そして、家族とのコミュニケーションがはかられて、できる限りつづけていきたいと思います。
A 家族旅行にまた行きたいと思います。
B 現業職場に光を…。年々、現業職場が縮小されてきているので、これ以上縮小されないように願っています。
K研究所Kさん
@ 私が一番楽しいと感じたことは、日々の子どもの成長を感じる時だと思います。例えば公園などで一緒に遊んだりしていると、子どもが一輪車に乗って見せたり、キャッチボールなどしている時などが一番楽しい時だと思います。
A 家族旅行に行きたいと思っています。なぜかと言いますと、今まで子育て中でしたので、なかなかのんびりした家族旅行ができませんでしたので、今年は実現してみたいなと思っています。
B これから、もっと子どもの養育費などがかさんできますので、給料面が気になります。この辺をお願いします。
自然が一番の故郷
鹿児島県・喜界島
サトウキビと焼酎とヤギと
ふるさとは遠きにありて思うもの。本当に遠い筆者のふるさとは、真っ青な空と海と、サトウキビの緑の葉とのコントラストがまぶしい喜界島。鹿児島市から約380`b南、奄美大島北端の東側約25`bの太平洋上にある。島全体が隆起珊瑚礁のため毎年、数センチずつ「成長」しているという特異な島。いわゆる南国リゾート的な観光地としての開発は行われておらず、訪れると日常の自然にふれられる。「平家物語」に記される俊寛僧都が流された島とか、第二次大戦の特攻機中継基地であったとか、歴史の中にも名を刻む島を紹介してみたい。
亜熱帯の自然
鹿児島県大島郡喜界町。一島一町の島の周囲は約50`bで標高200bちょっとの平坦な島。人口は約8500人でサトウキビ生産が中心の農業や漁業が産業の柱となっている。
【バナナが家で実る】
奄美地方の気候は亜熱帯。真冬でも気温10度を下回らない(真夏は激暑=日差しが痛い)。気候の影響で、本土では見られない動植物も多い。喜界島もご多分にもれず、筆者の実家ではバナナ、パパイヤが庭で実るなど南国の自然がいっぱい。
【ハブはいない】
奄美・沖縄地方特有のヘビ「ハブ」は島(奄美地方では沖永良部島・与論島にもいない)には生息していない。海からニョキニョキと顔を出した隆起珊瑚礁の特性とも言えるかも。
【蝶が飛び交う島】
町では「蝶の飛び交う隆起珊瑚礁の島」として宣伝し、特にオオゴマダラは保護条例を設けて守っている。大きな白地の蝶でゆったり飛ぶ姿が優雅な雰囲気。群れて草木にとまっていることも多い。過去にサトウキビ畑の農薬を空中散布した時期があり、姿を見なくなったことがあったが無事に復活している。
【オカヤドカリ】
帰省中、満月を迎えた大潮の夜(午後8時過ぎ)、夕涼みがてら海水浴場にいると砂浜がカサカサ、カチャカチャと騒がしい。月夜の闇の中にオカヤドカリの大群がうようよ(写真参照)。砂浜を歩きサンゴ礁をよじのぼり陸に向かっていた。島に暮らす両親もその数に驚いていた。
普段は陸地が生活の場だが、大潮の夜は産卵のために海岸に大群が押し寄せる。普段これほどの数がどこに潜んでいるのか。偶然の出来事にびっくり。
ヤギはうまい
島はヤギ料理でも有名。実家でも家畜としてヤギを飼い業者に解体してもらって料理する。祝い事やお客さんへのもてなしなど、親類も集まってワイワイと宴を開く。
一昔前は親類同士が集まり自分たちで解体して食べた。その作業に携わることを求められたとき、「子どもから大人への仲間入り」のような感じがして、誇らしかったことを思い出す。
島民全員がヤギ大好物というわけではないが、昔から食される長寿・健康の源となる有名な郷土料理。
ヤギ料理は、独特の風味とコクがあって好き嫌いが分かれるところだが、その味のとりこになった筆者は帰省のたびに料理をお願いしている。
大阪なら大正区の沖縄料理店などで食することができる。一度ご賞味あれ「うまさんどう(おいしいよ)」。
【主なメニュー】
@ヤギ刺し=肉のタタキ。解体前に丸焼きするので食べられる。筆者はこれが一番。
Aホルモン炒め=方言では「カラジューリ」。内臓と野菜などをいためてミソ・しょう油などで味付け。
Bヤギ汁=骨・身のエキス満点。二日酔いの朝にもピッタリの健康食。
サトウキビから黒糖焼酎
サトウキビ生産は島の基幹産業で実家は年間200d程度を生産し製糖工場に出荷している。工場では、絞った汁から黒砂糖のほかザラメを製造する。竹のような皮をむいてしがむと甘いのがサトウキビ。
この黒糖を使い蒸留されるのが黒糖焼酎で島には蔵元が2社あり、それぞれ「朝日」「喜界島」ブランドで販売されている。黒糖を原料にした酒の製造は、酒税法で奄美群島にのみ認められており、黒糖焼酎はまさに島の酒でヤギ料理をあてにグイっとやるのがまたうまい。
ザラメは白糖のように何にでも使えるが、コクがあり煮物やコーヒーなどにもよく合う。
のんびり島内観光
島を訪れる時期はやはり夏がベスト。透きとおった海で、熱帯魚やサンゴを観賞してリフレッシュしたい。ただし日中の日差しがキツイ時の肌の露出は禁物で火傷にならないようご注意を。島の人々は夕方から泳ぎに行くのが習慣となっている。
島内は循環バスで1周できるし、タクシー、レンタカー・レンタバイクもある。島唯一の観光ホテルやビジネスホテル、民宿でのんびり過ごすのもいい。
【大パノラマスポット】
島一番の標高がある百の台公園やすぐそばの中西公園では、太平洋が眺望でき、水平線のパノラマは地球の丸さを実感する。夜には天の川をはじめ、きらめく星々の天体ショーにも感激する。
集落の路地に入れば、台風の風除けを兼ねた隆起珊瑚礁切り出しの石垣で囲んだ家屋が目立つ。石垣からガジュマルが伸びているなど南国ムード満点。夏は木陰に海風が吹きさわやか。
【信号機のない島は返上】
2003年まで島には、交通信号機がなく本土の人には驚きのことだったが、同年に記念すべき第1号機が設けられた。ただ、交通安全用というよりは子どもたちへの教育の一環という感じのするものだ。
【伝説スポット】
@俊寛の墓
俊寛は平安時代後期の真言宗の僧で、1177年に平氏打倒の陰謀に加わったことが露見し鬼界ヶ島(薩摩国)へ流刑されたのち島で自害したとされる。その俊寛の悲劇が「平家物語」に記され文楽などで上演される。鬼界ヶ島はトカラ列島の硫黄島とする説もある。
A雁股の泉
1165年の保元の乱で敗れた源為朝の伝説を今に伝える泉。伊豆大島から琉球へ南下する際、しけに合った船が喜界島沖に漂流。島を発見した為朝は雁股の矢を放ったあと上陸し、矢を引き抜いたところ水がわき出したとされている。
空路または海路
大阪在住の筆者が帰省の際は飛行機で鹿児島または奄美大島を経由。奄美・喜界間の空路は、飛行時間10分程度の短い空の旅になる。
喜界空港は第二次大戦中、特攻隊の中継基地としても使用された。敷地内にはテンニン菊が咲くが当時から「特攻花」とも呼ばれ、今も若くして逝った特攻隊員たちを偲ぶ象徴とされている。
海路では大阪南港から鹿児島志布志港へ。そこから鹿児島港に陸路で移動して島直行のカーフェリーに乗る。時間はまるまる一昼夜を費やす航程となり旅費は安いが日程に余裕がいる。(竹下)
【喜界町ホームページ】http://www.town.kikai.lg.jp/
多種多様なネズミたち
ネズミの豆知識
ネズミは非常に種類が多い。南極大陸を除く全大陸と、ほとんどすべての島のさまざまな環境に適応して多様な種が存在する。
一般にネズミというと小さくてすばしっこい生き物を想像するが実際にはその大きさはさまざまで、世界最大のネズミであるカピバラは体長105〜135a、体重35〜65`にもなる。肉は豚肉のような味がすると言われていて、一部では食用とされている。
古代では第三紀後期のフォベロミス・パッテルソニ(Phoberomys pattersoni)が最大で、体高1・3b(尾まで含めた体長は3b)、体重700`程度あったと考えられている。もはや豚よりも大きい。最も小さいものは体長4a、体重7c程度でありネズミといっても多種多様である。
さて、そんなネズミは哺乳類の中で一番種類が多く、その種類は現生哺乳類全種(4300〜4600種)の約半数に当たる2000〜3000種を有し、げっ歯類に分類されている。ネズミ目の動物は、上あご、下あごの両方に伸び続ける二つの門歯をもつ。この門歯は物をかじることで次第に削れてゆき、長さを保っている。漢語名齧歯(げっし)目、および学名Rodentiaはラテン語で「かじる(齧る)」という意味のrodereからきている。ネズミのトレードマークとも言うべき歯は木を削ったり、固い木の実の皮をかじったりと身を守るために使われ、常に何か硬いものをかじって前歯をすり減らす習性がある。もし、硬いものをかじらないまま放置しておくと前歯が伸び、口をふさぐような形になって食べ物が口に入らず、餓死してしまう。
ちなみに日本名の「ネズミ」は寝盗み(人が寝ている間にこっそりと食料を盗む)が転じて、ネズミという名がついたといわれる。
一般にネズミは繁殖力が旺盛であり、その数が加速度的に増えていくのでネズミ算という言葉があるほどだ。
ネズミ上科のほとんどの種(ハツカネズミ、ドブネズミなど、1000種以上が含まれる)が、丸い耳、とがった鼻先、長い尻尾といった、よく似た外観上の特徴をもち、外観から種を見分けることは難しい。このため、頭骨や歯によって識別がなされている。また、ネズミ目の動物の多くは、種子などの植物質を食料とするが、魚や昆虫を主食とする種もわずかに存在している。
ネズミは人間以上に繁殖力も適応力もあり、どこででも見かけることができることから、さまざまな国で、おとぎ話やアニメのキャラクターになっていて、ゲームの主人公にもなっている。おとぎ話ではハーメルンの笛吹きが有名、アニメではミッキーマウスやトムとジェリーのジェリーが。新しいところではポケットモンスターのピカチュウもネズミがモチーフになっている。ゲームではNAMCOのマッピーがネズミであり、ありとあらゆるものにネズミは登場する。
中世ヨーロッパではネズミは悪魔の使いとされているが、日本の一部の地域では五穀豊穣(ほうじょう)の神様とされ、その扱いは千差万別といったところだ。
現実の社会ではネズミも格差社会に生きており、特に先進諸国ではペットになるものと、そうでないものに二分化される。ペット化されるものはハムスターやテグーマウスの小型で、外見のかわいらしいものが多い。一方、地味な色合いのものや人の家屋が生息地域となるドブネズミやクマネズミは、衛生害獣として、ペストなど病原菌を媒介するという理由から敵対視され駆除される。このようにネズミの格差拡大は止まりそうにない。
今年は12年ぶりのねずみ年、干支の初めにきた賢さをもって、機敏にチョロチョロ活躍しましょう。(暁)
大和川付け替えと布団太鼓
ぶん 福助 旅
洪水と治水の戦いの結果うまれたのではないだろうか
新田開発で木綿の生産量が上がった
大阪の祭りの出し物といえば、台の上に太鼓と敲き手を載せ担いでまわる太鼓台かだんじりと決まっている。大阪の太鼓台は、屋根のない枕太鼓や上に布団を載せた布団太鼓が一般的だが、中でも奇妙に思うのは布団太鼓である。なぜ布団を載せているのか説明がつかない。それを大阪の「代表的」災害である水害と合わせて考えてみよう。
昔から、大阪の災害といえば水害が多い。1600〜1800年ほど前は、河内平野まで大きな入海であった。南からは大和川の枝川が幾筋も注ぎ込み、東からは淀川が土砂とともに流れ込んでいた。
大阪の川と災害
大和川は江戸時代の元禄以前まで、現在の柏原市安堂町あたりで石川と合流、すぐに了意川(下流は平野川)を分け北西に向かい、八尾市弓削付近で久宝寺川(長瀬川)と玉串川に分れていた。玉串川はさらに菱江川、吉田川に分かれ、東側の吉田川は北流して河内湖の名残である深野(ふこうの)池で寝屋川と合流し西に流れを変え、菱江川が入りこんでいる新開池に注いだ後、楠根川と再び久宝寺川と合流、徳庵で淀川の支流の古川を合わせ、さらに大坂城の東で平野川と合わさり、最後に淀川と合流して大坂の町に入っていた。
複雑な流れ方であるが、それがこの川の性格を示している。川に含まれる土砂が多いことと、河内平野が平坦であることが川底を高くさせ、氾濫がおきやすく、幾筋もの川に別れたり合わさったりしているのである。
そのころの水害は数々あるが、広範囲だったのは延宝2(1674)年6月の大雨で、茨田郡仁和寺村(現寝屋川市)で淀川の堤防が切れ、柏原村で大和川堤防が切れたため,北は枚方から南は堺まで,東は生駒山麓から西は大坂に至るまで一面が泥水の中に没したという。
深刻な農民被害
被害が最も深刻であったのは農民たちで、それは飢餓を意味していたのである。
小説「大和川」(北田敏治著)には「声揃え」または「水追い」ということが出てくる。川が氾濫寸前になった時、村人が堤防に集まって向こう岸に向かって一斉に大声を張りあげるのだ。その声が向こう側の堤防にあたると先に決壊するというのである。向こうの堤防が崩れればこちらには水は来ない。当然向かい側の村も声を限りにやる。想像するにおぞましい光景だが、そうでもしなければどうしようもない心情は汲まなければならない。
堤防の補修くらいでは水害はなくなるべくもなく、流れる川の浚渫は作業が大変で費用もかかる。中河内郡今米村(東大阪市)の庄屋川中九兵衛とその三男の甚兵衛たちは、大和川を住吉と堺との間から海へ川筋を付け替えるべきだとして幕府に願い出た。
反対もあった。付け替えで田畑を失うのではないかという船橋村から遠里小野村にいたる29の村と、大和川各川を行き交う運送業の剣先船仲間である。付け替えにより旧川は水量が減り船の航行ができなくなるからである。
治水と新田開発
河村瑞軒(瑞賢:1618〜99)が幕府に依頼され大坂の治水に乗り出し、貞享元(1684)年から同4年にかけて一連の工事を実施した。その一つが安治川の開削で、もと三角洲地帯であった九条島(現西区九条・此花区西九条など)を堀り、淀川の水を一直線に大阪湾へ導いたものである。安らかに治まるようにと、安治川と名付けられた。
一方、河内平野の村々では、その後も水害に見舞われ、付け替えの訴願活動が断念されることはなかった。河村瑞軒の死後、甚兵衛らの訴願に理解を示したのが幕府代官万年長十郎頼治であった。ついに幕府も請願を容れ、元禄16(1703)年大和川付け替えの令を下した。工事は宝永元(1704)年2月に着手され、諸藩の協力で10月13日完成した。異例の早さであった。
大和川支流の各川は川幅が狭まり、深野池・新開池もほとんど水がなくなった。跡地は新田として開墾され、耕作地が千六十三町余生まれた。新田には米とともに多く木綿が栽培され、河内木綿として全国に知れ渡ることになった。
なぜ布団をのせているのだろう?
布団太鼓の謎
布団太鼓というのは、台の上に太鼓と打ち手を乗せ担ぐ太鼓台の一種で、屋根に布団を載せているものを大阪ではそういっている。
布団太鼓は、どこで生まれたか。都市祭りのルーツである京はもちろん、祭礼で町の出し物が確立している江戸や尾張などにはない。見られるのは、瀬戸内海の町や山手の村、和歌山、九州の一部であるが、その広がる範囲は大阪の影響文化圏である。古い記録も大阪にある。従って生まれたのは大阪であろうと考えるのが妥当だろう。
では大阪に布団太鼓が現れたのはいつごろか。色々な文献が残ってはいるが、わからない。
享保年間(1716〜36年)に淡路島の人が泉州の祭礼で舁き檀尻(だんじり)を見て淡路島でも出し始めたというが、口伝であり確実ではない。
貝塚では元文6年(1741年)の祭礼に「北之町よりだんじり出候得(そうらえ)とも、ひき(曳き)たん志りハ堺江願不申(ねがいもうさず)、荷ィ物(にないもの)也」(北之町からだんじりは出たが、曳きだんじりは堺に借りなかった。舁きだんじりであった)という記録があるが、年代からして「荷ィ物」とは布団太鼓であろうと考えられる。
また、長崎の諏訪大社のおくんち祭りに「コッコデショ」と呼ばれる布団太鼓が出るが、寛政11年(1799年)に初めて出され、堺の船が伝えたという記録がある。
布団太鼓の絵として確認できるのは「摂津名所図会」で、寛政8年、10年(1796年、98年)である。布団太鼓は、恐らく元禄(1688年〜1703年)まではさかのぼれないのではないか。
奇妙に思うのは、なぜ太鼓台の上に布団がのっているのかということである。
車輪のついた曳山や人が担ぐ「山」は、洛中洛外図屏風(歴博甲本など)の祇園祭の絵に見られるから、室町時代からある。山の代わりに鉦や太鼓をのせ、囃子を奏しながら担ぎまわるのも、祭りだからであって当然だろう。雨が降ってはかなわないから屋根をつけようと考えるのも自然だ。しかし布団をのせるという発想はどうしても出てこない。
神霊を降臨させる「依り代」という考えが一般的なのだろうが、矛でもなく御幣でもなく、なぜ布団なのか。神が降りてきてそこに座られるとでもいうのであろうか。
一つの考えが浮かぶ。大和川の付け替えによる新田開発で、河内の木綿生産は格段にのびた。当然、買い付けていた大坂の木綿問屋は繁盛する。新田の開発者ももうかったであろう。喜びは分かち合わねばならない。祭礼の町の出し物を寄付しようという気にもなる。自分の商売にちなんだものがいい。当時一般には布団は木綿わたを使っていたから、太鼓台の上に布団をのせよう││と。
いずれにしても、布団太鼓は江戸時代から大坂や堺の祭りに出され、木綿生産の盛んだった河内や泉州の多くの地域で祭礼に担ぎ出されている。